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ヒストリー

「とことんやれば趣味が仕事を呼ぶ。
 それを実証できた。いい人生だよ」

松岡茂雄(元副社長)インタビュー

序文

90年代前半、日本SPセンター社員だった私の知る松岡茂雄さんは、
黒モノ家電と、海外向け販促ツールを扱うグループの上に立つ、
バリバリの現役経営者であった。

今、船のスイートルームで和らいだ表情で座る彼は、
悠々自適の趣味人である。しかし、この趣味こそが
彼に仕事をもたらし、会社を発展させた原動力であると、
私たちは知ることになった。
(インタビュアー:阿古真理)

1980年代にアメリカで出合った『「売る」広告』

「ステーキか。豊かな国だな」
日本SPセンターの松岡茂雄は、アメリカ・サンフランシスコにいた。
マーケティング協会主催の視察旅行に参加したのである。
まだレーガンがカリフォリニア知事だった頃の話だ。
松岡は学生時代から英語に通じており、市井の人との世間話も楽しんだ。

80年代には日本SPセンター主催の視察も行われ、
松岡はそこで1冊の本と出合う。現代広告の父と呼ばれる
デビッド・オグルビーの著書、『「売る」広告』だ。

豊富な事例を駆使して、広告は商品を売るための存在だと実証していた。
「これを翻訳したい。日本の広告業界が勉強すべきことが、ここにある」。
松岡はかつて、オグルビーの著作「ある広告人の告白」を訳したこと
があり(西尾忠久氏と共訳)、それは自然な流れでもあった。

版元からつけられた翻訳の条件は、版型からデザインまで
原書とすべて同じにすること。信頼のおけるデザインスタジオで
版型を作ってもらい、横書きで写真の位置まで同じ本を作り上げた。

松岡が共鳴した著者の考え方は、会社の企業理念のバックボーンとなる。
松岡は、この他にも多数、アメリカの広告の本を読み、翻訳を手がけている。
それは、自身がまず、広告のノウハウを身につけるためであった。

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「日本には広告を学ぶテキストがない」

なぜアメリカの広告だったのか。それを知るには、
松岡が会社員生活をスタートさせた鉄工会社時代に遡る必要がある。

昭和33年に入社した松岡は広告宣伝部に配属され、
広告のスペシャリストになるべく勉強の機会を与えられる。
当時の企業は社内の人間が、コピーを書き広告を作っていた。
サントリー宣伝部に、山口瞳、開高健がいた時代である。

「ところが、適当なテキストがないんですよ。
通信販売などダイレクトマーケティングの本はあるけれど、
広告自体について学べる本はない」

ノウハウを探し求める中で、出会った人が電器メーカーの
宣伝課長だった福田成美である。大阪コピーライターズクラブ(OCC)の
会員同士として知り合った福田は、売るための技術が詰まった
アメリカの広告資料を豊富に集めていた。

資料を見ながら2人は、いかに商品の魅力を伝え、
買う気にさせるか熱く語り合った。

その福田に誘われ、クラブの委員会終了後に行ったバーに、
まだ勤め人だった井上道三、寺井久子ら、
後に日本SPセンターの創業メンバーとなる面子が集まっていた。

当社創生期の井上会長

「広告はいずれ社外で作るようになる」。
井上の言葉に動かされ、決意した転職

時は昭和40年代初頭。いつものようにOCCのメンバーで飲みながら、
販売促進の重要性について議論を戦わせる中で、井上が言った。

「広告はいずれ、外部で作る時代になる。僕はその中でも、
セールスプロモーション専門の会社を、このメンバーで作ろうと思う。
松岡君も来てくれないか」

会社員生活もそろそろ10年。企業はスペシャリストから
ゼネラリストを求める時代へ移り、異動を覚悟する時期がきていた。
しかし、『ある広告人の告白』翻訳をはじめ、
東京コピーライターズクラブ(TCC)の広告賞受賞、
『ブレーン』での執筆など、広告業界で着々と実績とノウハウを
積み上げていた松岡は、業界のカリスマ的存在だった井上の言葉に動かされた。

そして昭和43年、松岡は正式に勤め先を辞め、
日本SPセンターの社員になったのである。

オーディオ事業部との取引にまで発展した
コーラスと音楽鑑賞の趣味

きっかけは、やはり大阪コピーライターズクラブだった。
会員の紹介で知己を得た、松下電器産業のステレオ事業部主任から、
「オーディオの仕事をしませんか」と誘われたのだ。

「テクニクスが松下のオーディオブランドに替わる時期でね。
レコードプレーヤーの画期的な商品が出るから、
その販売促進をやらないかと言われたんです」

鉄工会社で住宅資材などを扱っていた松岡が、オーディオの仕事を
頼まれたのには、理由がある。学生時代から趣味でコーラスをやっていて、
オペラなどのクラシック音楽を自宅で聴ける音響機器に強い関心を持っていた。

「就職して最初のボーナスで、ペンタックスの一眼レフカメラと
ステレオコンポーネントを買いました。松下に就職した先輩に聞いて
勉強して選んだ商品です。いい音楽はいい音で聴きたかったからね」

さらりと言うが、松岡が20代の昭和30年代は、
白黒テレビを買うことが夢だった時代だ。
趣味性の高いステレオなど、一般の家庭にはほとんど置かれていない。

創成期からの詳しい商品知識がある松岡は、貴重な存在として
認められたのだ。とことんやれば、趣味が仕事を呼ぶ。
その実証者となったわけである。

オーディオユーザーとしての松岡の実力を証明する裏話がある。
平面駆動のスピーカーが出たときのことだ。

クライアントに新製品の批評を求められたとき、レコードから
流れるバイオリンソナタのピアノの音が聴こえないことに気づき、
「駆動力が足りません」と正直に言ってしまった。
これが影響したのか、一度は仕事が縁遠くなってしまった。
しかし後にその理解力が高く評価され、受注が戻ってきたのだ。

「ユーザー経験が切り口の発見を生む。
それが信頼につながるんだ」

「使用者の立場に立って商品のポイントを発見し、
自分の意見の持つことが、コピーライターの仕事です。
マーケッターの感覚とユーザーの感覚を併せ持つことが必要」と
実経験から語る松岡。
好きな言葉が、アメリカの広告会社DDB社長バーンバックの
「広告にマジックはない。製品にマジックがある」だ。

「派手なキャンペーンだけで商品が売れるのではない。
結果を見れば、性能と値段だ。
例えばLUMIXは、シャッターを押したらすぐ撮れる。
小さいけれど、28ミリの広角を使える。
そのよさをきちんと伝えるのが、セールスプロモーションの仕事です」

実は、松下電器産業からLUMIXの仕事を
日本SPセンターが請け負ったのも、オーディオの仕事を
松岡に任せたご担当者との縁があってのことだった。
30年の時を重ねた異動と経験が、回りまわって今の契約につながっている。

「自分の仕事を若手に引き継ぐ」ため
早めの定年を自らに課す。

松岡の話には、人の名前がたくさん登場する。もちろん、
日本SPセンター社員の名前だ。自分がアカウント開拓のきっかけを作った
LUMIXについて、「森さんが高級訴求のすばらしいカタログを作ってくれた」。

松岡の英語力が買われ、取引が始まった松下の海外向け販促の仕事が、
「今は正井さんや渡辺君へと引き継がれている」と目を細めて語る。

「若い人は若い人と仕事をするのがいい。自分のアカウントだからといって、
抱え込んで自分だけ頑張っていたらだめです」と、
自分が個人の信頼で築いた関係を、部下へ引き継いできた人が言い切る。

仕事は、個人から、会社対会社の関係に発展させなければ続かない。
担当者は異動するからだ。

その哲学を実践するかのように、松岡は65歳で自らの定年を言い渡した。
今はコーラスを続けながら、大学で美術史を学び論文を書く。
「仕事は人生の楽しみの一つだから楽しめ」。
仕事に全力投球してきた大先輩が、自らの生き方で示してくれている。

取材:2007年10月
※文中の松下電器産業株式会社は現在、
パナソニック株式会社に社名を変更しています。

<追記>

日本SPセンターの生い立ちをさらに詳しく知るには、
創立から9年後の松岡元副社長による
次の一文を読んで頂けばよく理解できます。

『それは、委員会のながれの
インフォーマル・グループから始まった』

松岡茂雄 (ブレーン S51.10「わが友を語る」より)

「友を語る」といっても、交際の広くない私のことだ。
とても、面白い話はできそうにない。
幸い私たちの会社は、大阪コピーライターズ・クラブのメンバーが
寄り集まってできたようなものだから、その話からでも始めてみよう。

日本SPセンターが発足してから、早いもので、
もう、丸9年(S51当時)になる。
創業当時の社員は、井上道三社長(当時。現会長)以下4人ぽっち。
現在の社員数はその10倍強(当時。現在は25倍にもなる)だが、
もともと、小人数だったわけだから、急成長というほどのことでもない。

この小さな会社が、「砂漠のような大阪」でつぶれもせずに、
ここまできたのは、ゼニにはきびしいが、多くの友情に恵まれたこと。
さらには、マス広告の世界から、いち早く、セールス・プロモーションの
世界に進出したことが、理由に挙げられるだろう。

セールス・プロモーションの鬼、
井上道三氏とOCCグループ

今は昔、昭和40年の大不況は、
ノホホンとしていた関西の広告制作者に大きな影響与えた。
それは、華やかなマス広告の世界から、販売促進の分野に
目を向けざるを得なくなった、というきびしい現実だった。

当時、大阪コピーライターズ・クラブの委員会でも、
事務局長の井上道三(現当社会長)を中心に、企業内の広告制作者や
広告代理店の有志が寄り集まっては、マジメな意見を交換していた。

議題は、きまって、マス広告の効率の悪さから、
企業内広告制作者の行く末、
販売促進の効果などにいつしか落ち着いていった。

石油ショック(昭和48年オイルショック不況)以来、広告代理店筋が、
一斉にセールス・プロモーションの分野に手を伸ばしているが、
私たちの場合は、ちょうど一時代前に、SPに注目していたことになる。

井上氏は、当時、東京オリンピック関連の
ゴミ箱キャンペーンで高名な、セキスイの販促課長であり、
サントリー(株)広報室長などを歴任されたY氏やイラストレーターのS氏らと
ナプキン・グループを組むタレントであったから、OCCの委員会くずれは、
自然、井上道三を囲む研究会というか、雑談会になった。

北新地の、小さなスナック・バーで、サントリー・オールドを飲みながら、
ドラッカーの『創造する経営者』、レビットの『マーケティングの革新』、
ボーデン・マーシャルの『広告管理』 などについて教わった。

とりわけ委員会に出席率の高かったのが、三洋電機の宣伝課長だった
福田成美(元当社副社長)で、これに私を加えると、なんのことはない、
現在の日本SPセンターはこの『井上ゼミ』が、
会社の形に発展したもの、とでもいえるのである。

(ブレーンS51・10 「わが友を語る」より)

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