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ヒストリー

「コンペ荒らしだった自分に決別。
働く真の動機をみつけたんだ」

福田成美(元副社長)インタビュー

序文

福田成美さんにお会いしたのは、朝日が射し込む船内ラウンジ「海」だった。
私が社員だった11年前と変わらない温かい眼差し。
その大きな懐に飛び込むつもりだ。

すると、福田さんは20~30代の血気盛んな若者の顔つきになり、
日本SPセンター創立秘話を語り出す。話に引き込まれるように、
私たちも一緒に、昭和30~40年代へとタイムスリップした。
(インタビュアー:阿古真理)

20代はコンペ荒らし。広告「作品」を
作ろうとして何度も上司と衝突した

冷蔵庫、洗濯機、白黒テレビが「三種の神器」と言われ、
次々と登場する新しい家電製品に人々が憧れた昭和30年代初頭。
福田成美は、電器メーカーの宣伝部で働いていた。

この頃は、企業内宣伝部がマスコミ広告からカタログまで制作していた。
アートディレクターの福田も、自社製品の広告を作る日々。
でも、その視点は今とは違っていた。

「僕もね、作家性のあるアートをめざした時期があるんだよ。
26歳ごろはコンペティションキラーでね。」と告白する福田は、
毎日新聞主催の毎日デザインコンペで何度も受賞した実績を持つ。
「作品を作ろうとして、上司と衝突したもんだ。でも、
アメリカの広告を翻訳し研究するうちに、気持ちが変わってきた」

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「マス広告だけでは、もう売れない」。
注目したのはセールスプロモーション

「マス広告を作る現場にいて、僕らはテレビCMだけで商品が
売れなくなったことを実感していてね。
売るためには、市場の消費者ときちんと向き合うことが必要になる。
マーケティング・コミュニケーションという言葉が、
昭和30年代後半に作られたんだ」

高度成長期も折り返し点にかかり、三種の神器は半数の家庭に行き渡る。
そして40年不況。作れば売れる時代は終わり、
たくさんの企業が倒産した。
戦略を持たなければ、商品が売れない時代が始まったのだ。

そのノウハウとしてアメリカから輸入されたのが、
マーケティングであり、セールスプロモーションという新分野だった。
その重要性にいち早く気づいた一人が、福田である。

大阪コピーライターズクラブ(OCC)に所属していた福田は、
サントリーの開高健や、まだ勤め人だった井上道三など
錚々たるメンバーに囲まれ、アメリカ広告の翻訳研究を行った。
鉄工会社に勤務していた松岡茂雄もOCCで、
アメリカ広告の売る力について議論する仲だった。

「アメリカでは、コピーライターの力が並々ならないんだよ。
ぐいぐい引き込む長い文章で書かれている。
しかも、その長さを感じさせないタイポグラフィ、文字の並べ方がうまい。
当時、日本にはそういう広告が消費者に効果的というオピニオンはなかった」

「そんなアメリカの広告スタイルを『コマーシャルフォト』や
『ブレーン』で紹介していた僕に、井上さんが注目してくれてね。
コピーライターの専門家集団の会社を作るから入らないか、と誘ってくれたんだ」

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昼は勤め先でマス広告、
夜は日本SPセンターでコピーを書く日々

30代初めの福田は、気力体力共に充実していた。
日中は今までどおり、電器メーカーに出社して雑誌や新聞広告、
カタログなどを作る。年間何十本。
3~4年で何百本というものすごい数だった。

仕事が終わると、また仕事。夜7時半には、
当時「北ノ町クラブ」と呼ばれていた日本SPセンターの事務所に出勤し、
夜の11時半まで4時間ひたすらコピーを書く。

会社のある翌日には持ち越せないから、何が何でもその日中に仕上げる。
そのうち、夜の仕事の収入が昼を超えるようになった。

そして昭和42年。井上道三や松岡茂雄らが中心となり
日本SPセンターを立ち上げた。福田は、大阪万国博覧会の
自社館プロデューサーとしての仕事を終え、一足遅れて
昭和45年9月から正式に日本SPセンター社員として働き始める。

当社創生期メンバー

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地味な仕事だからこそ
大きなチャンスがある

しかし、大手電器メーカーの正社員という身分を捨ててまで、
社員10人あまりのベンチャー企業に転職するとは、思い切った決断である。
しかも、効力が落ちたとはいえ依然として
大きな影響力を持つマス広告の仕事ができる職を手放してまで。

「井上さんが言ったんですよ。ポスターやCMと比べて、
セールスプロモーションは『地味な仕事』だと。
作家的じゃないという意味も含めてね。だけど、代理店が
仕事を押さえていないこの分野には、大きなビジネスチャンスがある」

心を動かされた背景には、勤め人時代の井上がオリンピック準備に
沸く東京で「町を清潔にする運動」キャンペーンを大成功させた実績がある。

人口が急拡大した高度成長期の東京は、あふれるゴミを持て余していた。
木製のゴミ箱からは、臭いニオイがもれハエがたかっていた。
そこへ、地味なタブロイド紙形式の広告に説得力あるコピーを書いて、
プラスチック製ゴミ容器の密閉力を売り込み、
爆発的に売れる商品に育て上げた。
販売促進は、人を動かし売り上げに結びつけることを実証したのである。

その販売促進のビジネスモデルを、
できたばかりの会社で井上や松岡らと練り上げた。

「『原稿用紙に文章を書いてお金になるのか』なんて話をしてね。
受け皿としてのデザインも必要だという話になって、
OCCで一緒だった青山さんにも独立してデザイン会社を立ち上げてもらった。
企画から営業、デザイン、コピーまで請け負って
販促ツールを作る今のスタイルが出来上がったんだ」

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「ノーセール・ノージョブ」が合言葉。
1日2回、八日市の掃除機事業部へ

セールスプロモーション分野に特化して他社と一線を画した
日本SPセンターも、最初はクライアントから見れば
数ある広告会社の一つに過ぎない。

「5社コンペなんて当たり前」の日々、福田が目をつけたのが、
滋賀県八日市市にできたばかりの松下電器産業掃除機事業部だった。

電器メーカー時代、扇風機や洗濯機の広告制作に十数年携わり、
豊富な商品知識があった福田は、「ノーセール、ノージョブ」を
合言葉に1日2回掃除機事業部へ通った。

「愛車のシトロエンに乗って、事業部案内やカタログなどの仕事を
もらって帰ってきて。作ったものを夕方までに持って、
また事業部長の元へ行く」。

大阪市内から八日市へは、電車でも片道2時間はかかる。
2回往復すれば、道中だけで1日が終わってしまう。
福田は、その熱心さをまず認めさせ、老舗のデザイン会社が
入っていた事業部から、定期的に仕事が入る基礎を築いたのだ。

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かの佐藤可士和氏も不遇時代の努力があって、
脚光を浴びる実力を身につけた

「今の若い人は、アートディレクターの佐藤可士和みたいに
なりたい、という人が多いだろうね。
でも、彼には博報堂の窓際族だった時代があるんだ。
その頃、図書館の本を片っ端から借りてきて、作品をカラーコピーしては
研究したことが、今次々と斬新な広告を作る源泉になっている」

「不遇のときに、どれだけがんばって力をつけられるかが大事」
と語る福田。広告賞受賞をめざすより、
10年後も働き続けていられる基礎力を身につけることが大事と説く。

そのために今は大学で、「何万人に1人しかいないスターではなく、
つぶしのきくデザイナーになる方法を教えている。
他の先生と違うヘンな先生だと思われるんだけどね」

そして、コンペ荒らしだった自身の若い時代と、
売る技術を身につけたその後を振り返り、
「賞の受賞は、勲章になっても、働く動機にはならない」と言い切る。

「本当の実力になるのは、ふだんの地味な仕事をきちんとする積み重ね。
周到な準備をして初めて力を発揮できる。
努力がものを言うから仕事は面白いんだよ」。

取材:2007年10月
※文中の松下電器産業株式会社は現在、
パナソニック株式会社に社名を変更しています。

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